2017年08月13日

献燈

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お仏壇やお寺の本堂の仏さまに捧げるロウソクに
火をつけることを点燭(てんしょく)といいます。

それではなぜロウソクに火をつけるのでしょうか?
お仏壇の中を明るくするためや読経する時のあかりと
考えておられるかもしれません。

ロウソクの火(燈明)にも仏さまの大切なおこころの
味わいがあるのです。

ひとつは「光」です。
周囲を明るく照らすありさまは、仏さまの 智慧 を意味します。
智慧とは、私たちの苦しみの元をぶち破るはたらきをいい、
これをまた「光明」ともいわれます。

もうひとつは「熱」です。
熱が氷を解かすようにような温もりは、仏さまの 慈悲 を意味します。
慈悲とは、私たちの固く閉ざしたこころを解きほぐしてくださる
はたらきをいいます。

そんな思いを自ら省みつつ、本日より境内の動物合同墓地にも
お盆の期間中(8/13〜15)夕刻より燈明を献上いたします。

どうぞ心静めてのご参詣をお待ち申し上げております。

南無阿弥陀仏


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2017年07月25日

善悪!?

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今ここに 『歎異抄(たんにしょう)』 という書物がある。

今から700余年前頃に浄土真宗の開祖である親鸞聖人を直接しる
唯円(ゆいえん)の手によって親鸞聖人の語録とその解釈や教えに
対する異端への批判を取りまとめられた書物である。

実はこの書、非常に危険できわどい内容であるため、読み方を
一歩間違えれば、

   お念仏の教えは、悪行を重ねようが何をしようが
   阿弥陀さまは全ての人を救い摂って下さる

と受け取られかねない部分が多くあり、のちの蓮如上人は
禁書として一般には目に触れないようにした。

まずは『歎異抄』の「歎」・・・。
親鸞聖人のお念仏のおこころを誤解して受け入れてしまう。
しかしそうではないはずだ。
人間というのはどうしても間違いやすいものだ。
その間違いを切る棄てたり、間違いを打ち破るとうことではなく
歎くのだと・・・。
怒ることでも攻撃することでもなく「歎」

そこでまた色んなことに気付かされる。
理不尽であったり、間違ったものがあることによって、
正しい真実とは何かが見えてくるものだ。

ついつい私たちは、自分の意に添わなかったりそれこそ
理不尽なことが起きるとそれを排除しようとする。
しかしその目の前の事象から正しい真実とは何かを学ぶ縁では
ないかとも考える。

ある一部上場の大手企業の社長さんと話をするご縁に恵まれた。

 眼で見えない隠れたところに会社の思いを全て込めております。
 人間は、特に現代人はついつい目で見えるところに振り回さて
 いますが、社会が求めている本質とは何かを模索して仕事を
 させていただいています。

という話を聞かせていただいた。

実際私の周辺にも、目先のことや見た目ばかりに目を奪われ
本来あるべき姿とはほど遠い者がいるのも確かだ。
残念ながらそういう者は社会のニーズに合わずまた社会に協調できず
社会に取り残されてしまっている。
ましてやその現実にすら気付けていないところがほとんどのようだ。

親鸞聖人が説く「善」と「悪」は一般の概念の善悪と意味が異なる。
阿弥陀さまから見た私たちの姿・・・。
「悪」だからこそ阿弥陀さまにすべておまかせするのである。

南無阿弥陀仏




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2017年07月19日

出逢い!

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私たちの宗派である浄土真宗の開祖である親鸞聖人は京都で90歳の
生涯を終えられました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/shinran.html

遺された数あるお言葉の中、生涯を終える時の言葉として有名なのは


某(それがし)親鸞 閉眼せば、
賀茂河にいれて魚にあたふべし



自分がこの世に縁尽きたら、葬儀もせず亡骸は賀茂川の水に流して
魚のえさにせよと、とうことです。
最近はやりの「家族葬」「個人葬」「直葬」という意では決してございません。
自分が死んだ後のことを案じて心配するよりも、今を大事に精一杯生きる
という親鸞聖人のお諭しであろうと思います。

実際は賀茂川に流されることもなく荼毘に付して、遺骨は分配されました。
それがもととなり、大谷の地に墓が建ち、大谷廟堂になりました。

さてその親鸞聖人も法然上人との出逢いがあったからなのです。
まさに人生をかけた、いのちをかけた出逢いでありました。

『歎異抄(たんにしょう)』という書物のなかに

たとひ法然聖人にすかせまゐらせて、
念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ


とあります。

法然上人にだまされて念仏したために地獄へ堕ちたとしても
決して後悔はいたしません、ということです。
つまりは生涯の師と仰いだ法然上人を信じる親鸞聖人の強い思い、
そしてこの出逢いによって、お念仏の教えに出逢われ

雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す

と宣言されました。

さあもうすぐお盆がやってきます。
日本人の宗教観では亡き先人の方々、ご先祖の方々に供養する
おこころで迎えられるのではないでしょうか?

決してその想いにとどまることなく、今の私のありようを
再点検してみませんか。
親鸞聖人の言葉にもあったように、今の自分にできる精一杯の
生き方を見つけてみませんか?
自分の歩むべき道が見つかれば、法然上人と出逢われてたように
大切な方との出逢いがあるかもしれません。

そんな思いで今年のお盆(盂蘭盆会)を迎えてみては如何でしょうか?

拙寺の盂蘭盆会は下記のとおり執り行います。
8月14日(月)
●お昼の部 13:30〜
●夕方の部 16:00〜

どなたでもお越しくださいませ。
心よりお待ち申し上げております。


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2017年04月08日

2017花まつり

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今日は、4月8日。
「花まつり」、「灌仏会(かんぶつえ)」ともいいます。

今から2500年ほど前の4月8日、お釈迦さまはインドで
お生まれになりました。

そのお釈迦さまの誕生をお祝いするのが「花まつり」です。

お釈迦さまは、私たちに

  あなたは、だれとも比べることのできない尊い存在なのです

と教えてくださっています。
そのお釈迦様の誕生をお祝いすると同時に、ご家族で「いのちの尊さ」を
感じていただきたいものです。

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地域の仏教会主催での「花まつり」のご縁を有り難くいただきました。

南無阿弥陀仏

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2017年02月22日

出家

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        比叡山

「出家」

家を出ること。家を捨て去ること。
すなわち在俗の生活を捨て。修行者の仲間に入ること。
受戒して僧侶になること。
【「浄土真宗辞典」本願寺出版刊】


私たちの宗派である開祖・親鸞聖人は、出家の立場を捨て
僧侶でありながら、妻帯・肉食をする非僧非俗(ひそうひぞく)の
立場を主張し実践されたことで知られている。
つまり僧侶でもなく俗人でもないという立場をとられた。

さてここ数日前から某人気若手女優が某宗教教団への「出家」による
突然の電撃引退というニュースでメデアが賑々しい。

「出家」という言葉だけが先走り、よく状況を聞いてみると
先に書いたように本来の意と違う立場であるようだ。
憲法第20条には、何人も信教の自由が保障されている。
故に宗教を信じようが信じまいが、宗教教団に入信・入会しようが
否かは自由だ。

またいつの時期からなのか、「無宗教」という言葉もよく聞かれる
うようになった。

「宗教」というのは、人間が生きていく上での“道しるべ”だと
私は味わっている。
その“道しるべ”がないと人生の行き先が見えてこないと思う。

また逆に、あれもこれもとなると歩む道を迷う。

さあ、皆さんは人生全てをまかせ切れる“道しるべ”に出逢えましたか?

今一度、他人事と思わず「宗教」について考えてみては如何?
後悔のない人生を送るためにも・・・。

南無阿弥陀仏
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2017年02月04日

お遍路さん!

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最近、同世代の知人から同じようなお尋ねが数件。
お尋ねの内容というと

   お遍路さんってどう?
   した方がいいの?

逆に私から尋ねる。

   なぜお遍路さんしようとしているの?

どなたも明確な答えはないものの、自らの人生を長い目で見た時
今の自分に一つの区切りを付けようと・・・。
50代ともなるとそう考える世代なのかもしれない。
  
そして住職である私から意見を聞き、後押しを求めているのかも。
仏教の基本的な知識を踏まえ、浄土真宗の考え方に基づく私の
考えとしてのお話である事を前置きして次のようにお応えしている。

仏教はお釈迦さまの教えであり、この私がこの世に縁尽きた時に
仏さまにさせていただく(往生成仏)教えでもある。

仏法は、応病与薬・対機説法といわれるようにお釈迦さまが
その人に合わせて説いている。
これは医師がその人の症状に合わせて薬を出すように、
また相手の立場や事情に応じて説いていくということ。

医師が出してくださる良薬であっても、他人に必要な薬と
自分に必要な薬は必ずしも同じだとは限らない。

自分の信条と合致することが「宗教の選択」であり、
その道をただ歩むことに尽きる。

そもそも四国巡礼のお遍路さんは、真言宗の開祖・弘法大師(空海)の
御跡を訪ねることがはじまりだと伝えられている。

従って寺院も真言宗各派寺院が中心であって浄土真宗寺院は皆無。
四国お遍路さんは宗教上、真言宗の修行の一環ということになる。

江戸時代以降に大衆化してからは、真言宗での修行という
意味合いから変化し、一生に一度の現世利益の祈願成就の
行為に変わった。

さて浄土真宗の宗教上の行為としていえば、阿弥陀仏一仏の
宗教であり、阿弥陀仏の本願力(他力)の宗教で現世利益は説かない。
つまり自力修行や現世利益の行為は必要がないということだ。

また、ご承知のとおり浄土真宗では般若心経は唱えない。
浄土真宗は浄土三部経(仏説無量壽経・仏説観無量寿経・
仏説阿弥陀経)がよりどころの経典。

唱えないと否定しているのではなく、唱える必要が無いとう
立場が正しい捉え方かも知れない。

浄土真宗以外でも唱えない宗派があるが、それぞれの宗教の
選択だからだ。
お経自体はそれはそれですばらしいが、仏教は教えを頭で
理解するのではなく、行動に移し教えを実践することが大切である。

しかし実践できない者が救われるとされる道が「南無阿弥陀仏」の
念仏の教えである。
浄土真宗は、阿弥陀如来の本願(必ずあなたを救うという誓い)に
お任せし、この人生を歩ませていただく教え。
故に浄土真宗のお勤めは、阿弥陀さまのお徳を讃え、
帰るべき故郷であるお浄土を偲ぶためだ。

『般若心経』は阿弥陀さまやお浄土のことが出てこないから唱えない。

阿弥陀さまが準備して下さった誓い、つまり「本願」という名の
大きい船に乗ってみんなで一緒に目的地に送り届けて下さるという
考え方が浄土真宗。

険しい山道を歩いていこうというお遍路の修行は・・・。

ただし観光や見物や健康維持の運動などの要素で、宗教的な意味合いを
全く離れてということであれば、それはそれで良いのではと思う。
四国の街並み散策し「自分探し」「癒し」・・・。

宗教的な意味合いを全く離れてですから、当然真言宗の行者としての
お遍路の服装は無し。

最近はお遍路ツアーなどもあり、効率よく交通手段を駆使してとなると
本来の行者と言えるのかどうか。
弘法大師や仏に対する喜捨(布施)で行うなら、間に合わせの真言宗徒に
なり変わるのでなく覚悟を持って修行の行者として行うべきだと考える。

自らの自己満足と驕りとならないように願うばかりだ。

南無阿弥陀仏
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2017年01月10日

九條武子女史!

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突然ですが、九條武子 という方をご存知だろうか?

この九條武子さんは、本願寺第21代明如宗主<大谷光尊>の次女であり
兄は大谷探検隊で有名な第22代鏡如宗主<大谷光瑞>。
才色兼備としてもてはやされ、大正三美人のひとりとして称された。
のちに公爵公家出身の男爵・九條良致(よしむね)と結婚。

義姉・大谷籌子(かずこ)裏方<大谷光瑞夫人>を助けて仏教婦人会を設立、
さらには京都女子専門学校<現京都女子大学>を設立された。
大正12(1923)年に勃発した関東大震災に被災するも築地本願寺の再建、
救援・慈善活動の推進と身を粉にして尽力された。
また一方では『金鈴』『薫染』などの歌集があり、歌人としても名を馳せていた。

しかし関東大震災復興事業での無理がたたり、敗血症のため42歳で往生。
宗門では武子女史のご苦労を偲び、命日の2月7日を「如月忌(きさらぎき)」
としている。

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本年、武子女史が亡くなって90年を迎える。
この節目のご縁に本願寺正面に面した堀川通りを渡った「龍谷ミュージアム」
において1月9日(日・祝)〜2月19日(日)の期間に『追慕抄 九條武子』の
特別展示が催されている。
http://museum.ryukoku.ac.jp/exhibition/reg.html

私も先日、御正忌報恩講の参拝の後、早速拝観させていただいた。
よろしければ如何でしょうか。

南無阿弥陀仏

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2016年12月10日

門徒もの(忌み)知らず

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先日のご門徒の葬儀の際にいただいた志の品に添えてあった御礼状と
「清め塩」についての紙片・・・。

   親しみ、いつくしんできた人が亡くなれた途端に「穢れてもの」と
   考えることは故人や御家族に対して大変失礼なことと思われますので
   「清め塩」は添えておりません。
   主旨をご理解下さいますようお願い申し挙げます。

葬儀社の企業努力なのか、それとも一種のおもてなしの思いなのか。
いずれにしても仏教徒としては、有り難いことなのかも知れません。

「門徒もの知らず」という言葉があります。

浄土真宗を信仰する信者のことを門徒と言いますが、そのまま解釈すると、
浄土真宗の信者はものを知らない、つまり世間の常識を知らないと
揶揄されている言葉です。

元々は「門徒もの忌み知らず」と言われていたものが略されて、
「門徒もの知らず」になったと言われています。
つまり「忌み事」を知らないということです。

「忌み事」というのは世間一般から時折耳にするバチや祟りを畏れ、
それを忌み嫌い避けることを言います。
しかし浄土真宗の教えからすると、全くの迷信・俗信なのです。

「門徒物忌み知らず」とは、迷信俗信にとらわれない浄土真宗の
門徒としての生活の信条をの示した言葉です。

例えばよく聞く「忌み事」を挙げてみましょう。

まず、日の良し悪しをいう「六曜」。
大安・仏滅・友引・・・。
結婚式は大安に仏滅を避ける。葬式は友引を避ける。
亡くなった人がが親しい友を引っ張っていくから・・・。
友引という字面が「友を引く」と書くという全く根拠のない理屈からです。

結婚式を大安を選んで行なわれますが、昨今の離婚率が高いのもご承知のとおり。
「六曜」自体がは儒教の教えによるもので、一定法則に従って日割りした暦です。
当たり前のことですが、日に良し悪しなどあるわけがないのです。

また、「忌み事」が語呂合わせによるものもあります。
病院や、ホテル、マンション、ロッカー、駐車場の番号にに4番や9番を
とばしている光景を見かけたことがあると思います。
これは言うまでもなく数字の「4」は死を「9」は苦を連想することからです。

中陰の四十九日が3ヶ月にまたがる場合、切り上げて早めるとしますが、
四十九日を「始終苦しみ」と読んで、「3ヶ月」を「身につく」と読み、
合わせて、「始終苦しみが身につく」という語呂合わせから来ています。
つまり四十九日が3ケ月にまたがると、自分たちに「始終苦しみが身につく」から
避けるとう粗末な俗信です。

最近はほとんど見ることが亡くなりましたが葬儀ともなると「忌み事」ばかり。
  一膳飯に箸を立てる。
  遺体の上に魔よけの刀を置く。
  出棺時にお茶碗を割る。
  お棺をぐるぐる回す。
  清め塩を使う。 
  火葬場への行きと帰りの道を変える。
これらは全て死者を穢れととらえて、忌み嫌いその事実から避けるということから
生まれた習俗です。
先の紙片の言葉のとおり、亡くなられた方を冒涜しているということです。

「忌み事」はこれ以外にも、方角の吉凶、家相、手相、墓相、占い、風水、まじない、
厄払い等々・・・。
挙げればきりがありませんが全て迷信・俗信のたぐいです。

親鸞聖人は、約800年前にこうした迷信俗信に惑わされている人々を嘆き悲しまれ 

  悲しきかなや道俗の
  良時・吉日えらばしめ
  天神地祇をあがめつつ
  卜占祭祀つとめとす

というご和讃を著述されています。

悲しいことに、今時の僧侶や民衆は、何をするにも日の良し悪しを
気にしてみたり、また天の神、地の神を奉り、占いやまじないなどの
迷信にかかり果てている

という意です。

著述された当時、そして科学の発達した今日でも全く違和感なく
受け入れられるところに、人間の根本的な迷いは昔も今も変わらない
普遍性を私たちにお諭して下さっています。。

浄土真宗の門徒に限らず私たち人間は、目の前の事実に目を背くことなく、
この真実なる教えに出遇い、根拠のない迷信や俗信に惑わされたり不安を
煽られることのない豊かな人生を歩むことが願いです。
もっともっと真実に触れていただけるよう私たちも日々精進です。

南無阿弥陀仏

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2016年11月14日

浄土真宗のたしなみ!

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浄土真宗のたしなみ?

いきなり重々しい感じがしますが、この時期になると世間さまでいう
「喪中ハガキ」「年賀欠礼ハガキ」が届きます。
正直な心情を言えば、残念というか空しく感じます。

特に「念頭のご挨拶を御遠慮申し上げます」という常套句・・・。
ご家族が亡くなられた事実と新年を迎えるにあたっての挨拶は
切り離して受け止めるべきだと思います。
要はこの文言は新年の挨拶はするなというこですから。
余りにも悲しみまで否定するのは行き過ぎではないかと。
したがって年賀欠礼状について結論からいえば欠礼しても、
出状しても浄土真宗の香りが漂う手紙やはがきであることが大切です。
いずれか私たちは間違いなく縁尽きる身であるのですから・・・。


以前にも幾度か書きましたが、死を不幸なこととして限定しないと
いうのが浄土真宗の考え方です。
一般常識では、死に関ることは悲しみと、死を穢れとみなして忌むという
ことなので喪中はがきを出しますが、浄土真宗では、悲しみを通して
如来の大悲にふれ、死を穢れとしないので年賀状を出しても何ら
差し支えありません。

しかしながら一般常識にも差し出す相手側にも配慮して、
「この人には家族が亡くなったことをぜひ知らせたい」
という方で、葬儀に連絡していなかった遠方の方々などには、
ハガキを出すぐらいの感覚でいいと思います。

あらためていうと、浄土真宗は迷信を信じない宗派です。
浄土真宗では「迷信を信じてはいけない」という教えがあります。
「喪中」ということで世間で言われることの大半は迷信だと
判断できるものは、それに従わなくてもいいという考え方です。
むしろ、お正月にはお寺にお参りしてください、と言っています。

初詣に関しては、浄土真宗は仏教なので、
もともと神社にお参りすることは薦めていません。
「神社に参拝してはいけない」
というのではなくて、
「お寺にお参りすれば、それで十分じゃないでしょうか?」
という受け止め方です
喪中ハガキを出すも出さないも、私たちの心ひとつです。
これをしなかったら亡くなった方の魂が迷うのではないかとうのも
浄土真宗の考え方で言えば、あり得ないことなのです。
ただ、世間一般の常識やそれぞれの家のしきたりもありますから、
それに準じるならそれでもいいよ、という考え方です。
まして、これをやらなかったらバチが当たることもありません。

あまり、いろんなことにとらわれず、肩の力を抜いて、
「こだわらない心」を持っていれば、何事も柔軟に対応できますし、
それこそが浄土真宗のたしなみだと言えるのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏
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2016年11月06日

2016報恩講&念仏コンサート

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先日告知をさせていただきました「報恩講&念仏コンサート」

本日無事執り行いました。
近隣のご住職がご出仕をいただき、宗祖親鸞聖人のご遺徳を
偲ばさせていただく報恩講。

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     オペラ歌手:花月真さん & ピアノ:ACOON HIBINOさん

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引き続いての念仏コンサート・・・。
滋賀・米原市にございます西来寺のご住職、そしてオペラ歌手として
ご活躍の花月真さんをお招きし、笑いあり涙ありそして心に染みる
歌があり、本当に尊いご縁をいただきました。

そして今回初めての試みでコンサートを行いましたが、あらためて
歌の力の強さをしみじみ感じました。

自分の思い、気持ち、信念を他人にそのまま伝えるということは
大変困難です。
直接相手に言葉として伝えたり、手紙にしたり、最近であれば
動画であったり・・・。

800年前の時代に生き抜いてこられた親鸞聖人は、たくさんの
書物を著わされて私たちに生きる道しるべを示して下さいました。

500年前には蓮如上人は「御文章」としてお手紙を残して下さり
人間の本質を見抜かれました。

花月さんの歌を聞き、曲に乗せられた詩を味わいながら素直に
染みるようにすっと入ってきたような気がします。

そして僧侶としてのあり方、お寺の役割ということも再確認させられた
ような気がします。

お参りにお越し下さった方々も十分に堪能したいただいたよう感じます。
これを機に少しでも仏教やお寺を身近に感じていただけるきっかけと
なれば幸いです。

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     AC00N HIBINOさんと一緒に

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     「大根&揚げさん」

最後は正福寺恒例の「大根&揚げさん」のお斎の振る舞いで
皆さんと美味しくいただきました。

今日も有意義な時間とたくさんの新たなご縁をいただき、本当に
有り難いことです。


南無阿弥陀仏




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2016年09月17日

慌てずにゆっくりと!

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あるお寺の山門脇に掲示されている今年の月替わりの
標語のご紹介!

<1月>
新年おめでとう
新しいのは嬉しいこと
新しい日を生み出した今までの日々
新年と共にありがとう

<2月>
義理チョコ 友チョコ 
たくさんのチョコレート
いくつあげた?
いくらもらった?
数で確かめているつながり

<3月>
ひっこしであらわになった
もっともっととためこんだ
もっともっとと求めた自分

<4月>
まっさらなランドセル
踏み出す一歩
見守る私が迎えた今日も
まっさらな一歩

<5月>
傷つけ合いながら生きる私は
助け合いを願う私でもある

<6月>
本当に怖いのは
これからも続いていく苦しみ痛みが
忘れ去られてしまうこと

<7月>
他人に対して
恥ずかしいと思う心の痛みが
無くなることで恥ずかしい

<8月>
ゆく夏の大文字
燃えているのは山だけか
私の思いが
私の欲が燃えている

<9月>
今日何度
他人を否定することばを使ったのか
自分のことは肯定するばかりなのに

ここに挙げた標語は、真宗十派の一派である真宗佛光寺派の
本山・佛光寺山門脇に掲示されている今年の標語です。
〓真宗佛光寺派〓http://www.bukkoji.or.jp/

時季と世相を反映しつつ仏教のこころが染みた、
実に絶妙な標語の数々です。
難解な仏教用語なしですから・・・。
門前を通りかかる人からのツイッターのつぶやきから
瞬く間に話題になったようです。

そんな数々の標語のうち、私自身がふと考えさせられたのが
画像に挙げた標語です。

スピード化を求めた昨今、求めるが故に失うものの
大きさを考えさせられます。
何かしらギクシャクした世の中にあって、
人として大切なものとは何か?

最後にもうひとつ・・・

人間に生まれるのはむずかしい
でも人として生きていくのは
もっとむずかしい

明日はちょっと早めの彼岸会の法要を執り行います。
ゆっくり腰を据えて「いのち」の問題に遇わせて
いただきましょう。

南無阿弥陀仏
        




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2016年06月06日

お西とお東

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    大坂石山本願寺址に建立された現大阪城

門信徒の皆さんや一般の方々との関わりの中で、
時折色んなお尋ね、質問を受けることがある。

即答でできることもあれば、私自身が浅学菲才故に宿題と
なる場合もある。
そんないくつかあるお尋ねの中で、ここ短期間で同じお尋ねが
あったためここはひとまず再度ブログにてお答えを・・

西本願寺-御影堂.jpg
    西本願寺・御影堂

東本願寺-御影堂.jpg
    東本願寺・御影堂

「お西とお東って何がどう違うんですか???」

「お西」とは正式名称「浄土真宗本願寺派(西本願寺)・
龍谷山本願寺」といい
「お東」とは正式名称「真宗大谷派(東本願寺)・
真宗本廟」という。

まず最初に、決して内紛が起きて喧嘩別れした訳ではないので・・・

さて今から約400余年前、現在の大阪城の地に大坂石山本願寺が
創建されており、信仰の中心であり大坂の街の中心であった。
当時第11代顕如宗主と織田信長との戦、いわゆる石山合戦が
11年間続いていた。
顕如はついに信長の和議に応じたが、長男・教如は抗戦を主張。

信長の死後、豊臣秀吉は顕如の後継に三男・准如(じゅんにょ)を推し
教如を隠居させ、さらに堀川の地(現西本願寺の地)を寄進し
本願寺を建立した。
一方秀吉の死後、徳川家康は烏丸の地(現東本願寺の地)を寄進し
本願寺を建立し、教如を継承させた。

こうして本願寺東西分立となったが、家康は勢力を分断させるために
東西を分けられたとされ今日に至る。

さて現在の建物について東本願寺は江戸以降の再建で大きく重厚であるが
国宝はほぼ皆無であるのに対し、西本願寺は380年前の再建で秀吉好みが
色濃く残り、優雅な桃山文化の遺構が残され国宝も多く保有している。
お堂についても西本願寺は堀川通りから境内に入り、右側(北側)が
阿弥陀堂、左側(南側)御影堂、畳の向きは南北に敷かれ丸柱で支えられて
いるのに対し
東本願寺は、烏丸通りから境内に入り右側(北側)が御影堂、左側(南側)
阿弥陀堂、畳の向きは東西に敷かれ角柱で支えられている。
西本願寺より後の再建であるため、わざと反対にしてのではと言われている。

その他阿弥陀様の形、お仏壇仏具、作法や読経の節など細部に
はいろいろと違いが・・・。
ただ親鸞聖人を宗祖と仰ぐというは同じであるので、お経や教義は同じである。

最後に宗門学校ついては、西本願寺は龍谷大学、東本願寺は大谷大学。

大まかな違いはこれくらい!!!

南無阿弥陀仏

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2016年04月06日

ご一緒に!!!

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『歎異抄(たんにしょう)』

今から730年ほど前に書かれた書物で、我が宗派の開祖である
親鸞聖人の門弟である唯円によって、親鸞の語録とその解釈、
さらには異端の説への批判を述べるものとしてまとめられたもの。

親鸞が亡くなった後に師の教えとは異なる解釈が広まって
いることを歎いた唯円が親鸞の意思を伝えようと筆を執って
完成させたのがこの書物。

このたび先輩住職の釈徹宗師の解説で、
NHKのEテレ「100分de名著」始まっています。
http://www.nhk.or.jp/meicho/
よろしければテキストを求めていただきご一緒にお勉強いたしましょう!


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2016年01月25日

ご一読を!

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先日、難波にある大型書籍店へ!

仏教書のコーナーをのぞいてみると、このエリアには珍しく
平積みで並べられた一冊の書籍『ブッダも笑う 仏教のはなし』。

週間売り上げ売れ行きランキングのベスト10にも堂々とお目見え・・・。
早速買い求めて一気に読み上げた。
著者は、お笑いコンビ「笑い飯」の哲夫さん。
彼が仏教に関心があり、笑いのある仏教講座を開いているのは
知ってはいたが・・・。

昨今は、宗教・仏教・お寺となると警戒されているというか、
一定の距離を置いているとうのが世間の大方な感覚かもしれない。
我々お寺(僧侶)は、少しでも身近に感じて頂けるように
手は打ってはいるのだがなかなか思いどおりにはならない。

そういう意味では、私は有り難い書籍だと感じる。
哲夫さんは表紙に

   お風呂に入った時みたいに
   「気持ちいい〜」ってなるのが
   仏の教え なんです


と記されている。

仏教の素晴らしさに触れるともっともっと親近感を持って頂くことに。
さあ、自分の目線(見方)を一新してみませんか?
ご一読のお勧めまで!!!


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2016年01月13日

御正忌報恩講2016

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本山・本願寺において毎年1月9日〜16日までの期間、
御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)が勤められています。

御正忌報恩講とは親鸞聖人のご遺徳を偲び、その後苦労を通じて
阿弥陀如来のご本願による救いをあらためて心に深く味わわせて
いただく浄土真宗にとって最も大切な法要です。

本願寺HP↓
http://www.hongwanji.or.jp/project/news/n001478.html


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  御影堂(ごえいどう)の宗祖親鸞聖人像には立派な仏華

今年も例年のごとく坊守とお参りさせていただきました。
年間を通じて最も厳しい寒さである京都ですが、私も今まで経験を
したことのないくらい暖かい穏やかな日和でした。
本願寺職員時代や学生時代の先輩・同僚・後輩とも出逢うことができ、
有り難いご縁をいただきました。

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本願寺でのお参りを済ませた後の坊守のいちばんの楽しみである昼食。
今年は桂にある京料理「筍亭」で昼懐石をいただきました。
http://www.juntei.jp/top.html
お蔭でおいしくいただきました。
ご馳走様でした!!!

南無阿弥陀仏
posted by 正 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 仏教

2015年12月14日

目に見えないものを大切に!

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近ごろの日本人の宗教観は希薄になってきていると、耳にすることが多い。
確かに生活環境、社会状況によって大きく変化してきたことは確かだ。
そんな昨今を「無縁社会」と揶揄されてきた。
つまり、親戚付き合いである「血縁」、近所付き合いである「地縁」、
社会の付き合いである「社縁」がもはや音を立てて崩れてきているという。
その崩れ方のスピードが年々加速してきているようにも感じる。

一方では、世代に関わらず「宗教」、とりわけ「仏教」に関心を持って
下さっている方もおられる。
我々お寺(僧侶)にとっては、喜ばしいことである。

あらためて「仏教」とは何ぞや?

@お釈迦さまの教え、つまり真実に目覚められた教えということ
Aこの私が仏、つまり真実に目覚めた者になる教えということ

以上が仏教の根本的なこと。

要は自分のありのままの姿に気付くということであろうか・・・。
もっと言いうと、
まず第一に自分自身のあらゆる基準は常に自己中心的で、
また自分の都合や気分によって変化するものであって
絶対的なものでないということ。

そして第二に自分自身で本当の自分の姿を見ることが
できないということだ。
つまり“見ている私”“見られている私”が存在している。

だからこそ、本当の自分の姿を明らかにするために、
また自分の歩むべく意味とその方向性を確認するがために
それを映し出してくれる『鏡』が必要となってくる。
それが「仏教」である。

見えるものを見ず
見えぬものを見よ


これは、以前あるお寺の山門の掲示板でみた法語。
まさに仏教の教えの神髄ともいえる言葉だ。
目に見えるもの、形あるものは変化していずれ
壊れていくものであり当てにはならない(諸行無常)。
しかし目では見えない人の温もり、優しさ、情愛、恩
そして仏さまからのこの私へのはたらきかけや願いが
支えになっていることを・・・。

そんな見えないものの中に人として大切なものがたくさん
隠されているように想う。
そんな寄り添う想いにさせていただくきっかけが仏教。

決して亡くなった方のためのものではなく
この私の生かされていく道であるのだから!

南無阿弥陀仏





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2015年10月30日

報恩講2015

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朝晩めっきり肌寒くなってきました。

この時季になると各真宗寺院では報恩講がお勤めになります。
拙寺においても下記の通りです。

11月1日(日) 
【お勤め】午後2時〜【ご法話】午後2時半〜
  講師>山本 成樹  師
     あそかビハーラ病院(http://www.asokavihara.jp/)常駐僧侶
     京都教区城南組願生寺・衆徒
  講題>「出遭う世界」から「出会う世界」へ

      ※ビハーラとは⇒http://www.asokavihara.jp/vihara.html

「報恩講」とは浄土真宗のみ教えをいただく真宗門徒にとって
宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲ぶ、一年で最も大切な法要です。
今年は山本先生をお迎えし、終末医療現場に僧侶として携わって
おられるお立場から、限られた私たちのいのちとどう向き合って
いくかを一緒に考えていきたいと思います。

本日、本堂のお華も準備完了!!!

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どうぞご家族お揃いでのご参詣をお待ちいたしております。
拙寺とご縁のない方でもどなたでもお参りくださいませ!

法要終了後、細やかながらのおもてなしもございます。

南無阿弥陀仏
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2015年10月17日

世俗の論理

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お釈迦さまが出家される以前の王子であった頃、
カピラ城の東西南北の門から城外に出遊し、
老人・病人・死人・修行者に出会い、
人生の苦を観じて出家を決意するにされる至ったとされる
「四門出遊(しもんしゅつゆう)」という逸話がある。

老・病・死は、仏教の課題そのものであり、
この世に生を享けた以上逃れることはできない。

確かに科学や医療の進歩でいくらか先延ばしにすることが
可能になったが、根本的な解決とは言えない。

私たちが社会で得た財産・名誉・家族・友人など
あらゆる物をいつか失う時がやってくる。

しかしながら現実の私たちの姿はそのことに気付けない、
気付きにくいものだ。
目先の楽しみ、損得に目を奪われ、自己中心的な姿は
まさに煩悩にまみれた姿であろう。

画像の法語は真宗教団連合(http://www.shin.gr.jp/
カレンダーの10月の言葉である。

世俗の論理が思うようにいかないことを私たちに届けて
下さるのが阿弥陀さまの智慧と慈悲である「南無阿弥陀仏」

その計らいをしっかと受け止めさせていただくべく
明日「秋季華の追悼会」(ペットの追悼法要)を執行。

唯々亡くなっていったペットたちへの法要ではない。
家族同然であったペットたちの尊いいのちの生・老・病・死の
理を飼い主であった方々に人間として何か大切なものを感じて
いただけるような法要でありたい。

まさに目先の損得に左右されるようでは・・・。
法要自体は決して収益事業ではない!!!

賛同してくださる寺院の参勤、協力して下さる業者の方々の来寺。
たくさんの方々の支えがあって、遠路広島からご参詣者を含め
約70名の方がご参詣予定。
また一つ有り難いご縁がつながる。

南無阿弥陀仏
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2015年09月10日

修多羅(しゅたら)

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       修多羅

♫ なぜめぐり逢うのかを
  私たちは何も知らない
  いつめぐり逢うのかを
  私たちはいつも知らない
  どこにいたの 生きていたの
  遠い空の下 ふたつの物語
  縦の糸はあなた 横の糸は私 ♫


これは皆さんご存知の中島みゆき作詞の『糸』の冒頭部分

この歌を初めて聴いた聞いた時、なぜか本能的に修多羅(しゅたら)が
思い浮かんだ。
修多羅とはサンスクリット語では「スートラ」といい、漢字は当て字。
「お経」とういう意であるが本来の「スートラ」という言葉の意味は、
織物の縦糸という意味で、過去・現在・未来へと縦に貫いている
不変なものを表わしている。
横糸は常に移り変わっていく私たちの様子を表わしている。

私たちの浄土真宗でいちばん馴染みのある「正信偈(しょうしんげ)」
というお経の中にも

   依修多羅顕真実(浄土の経典にもとづいて)
   光闡横超大誓願(弥陀のまことの誓いを広く示す)

という部分が永遠に変わらぬ普遍的な真理を表わす言葉である。
これを形にしたものが上の画像の「修多羅」。

浄土真宗の葬儀で棺の上に置かれている帯状の紐のような・・・。
また、大事な法要の時に僧侶が着用する七條袈裟を身に着ける場合
用いる肩から背中越しに垂れ下がっているあれです。

仏教的に言えば、横糸であるこの私が経(縦)糸のごとく、
真実の教えに出逢わせていただくご縁と味わう。
『糸』の歌詞からいえば、たくさんの人との出逢いによって
この私が生かされ存在しているのだと・・・。

さて本論に!

拙寺が友人知人・地域の方々・各関係者の方々に勧められ支えられて
今日に至っているペットの葬送儀礼。
早いもので8年が経過した。
その間ペットを取り巻く環境も年々変化してきた中、生きとし生きる
ものの命の尊厳を伝えていく理念のもと同志が集って「動物供養協議会」
という団体が6年前に設立され、私もお手伝いをさせていただいている。
この「動物供養協議会」は僧侶を中心としたペットに関する団体であるが、
全国にもペット関連の団体がいくつがある。

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   全国ペット霊園協会・神山会長と動物供養協議会・津村理事長


先日その中のひとつである「全国ペット霊園協会」の神山会長を
はじめとする理事の方々と私たちの「動物供養協議会」の役員との
画期的な懇談会のご縁をいただいた。

互いの組織のあり方、情報交換など有意義な時間を過ごすことができた。
また一つ、無知な自分の未熟さを感じる。
そしてまた一つ、知り得たたくさんの情報が自分の学びとなる。
本当に有り難いことだ!

世間のペットに対するニーズは多種多様であり、個別の独断的かつ
閉鎖的な考えでは、そのニーズには対応しきれない。
そして互いが自社の、自己の都合を優先するような、協調性のない
会社組織、リーダーは業界から淘汰され、実際居場所を無くして
しまっている者が出現してきているのが現実のようだ。
何せネット社会、情報社会であるが故に末端まで瞬時に響き渡る。

恐るべし!!!

今回、業界全体の底上げに寄与できる、つまり寺院・僧侶として
対応できる団体、民間業者として対応できる団体としての協力体制が
構築され確認できたことは大きい。

まさに「修多羅」と『糸』の出逢いの味わいである。
また新たな出逢いに感謝!

南無阿弥陀仏



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2015年09月07日

袖振り合うも多生(他生)の縁

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袖振り合うも多生の縁

命あるものは死を迎え、そして何度でもれかわり、輪廻のなかを回り
回っているというのが基本的な仏教思想である。
故に「他生の縁」ではなく「多生の縁」である。

これを仏教用語では、「縁起」ともいう。
つまりすべての存在はかぎりない因縁によって在り得ていると受け止める。
しかし、仏教の基本思想を表す重要な用語であるにもかかわらず、
残念ながら私たちの日常において誤用されている仏教用語の中のひとつである。

「縁起がよい、縁起が悪い、縁起をかつぐ」など、物事の吉凶の前兆として
「縁起」という言葉が用いられている。

仏教の基本思想でいう「縁起」とは、私が先に存在しているのではなく、
無量無数の因縁が私となっている、無量無数の因縁によってこの私が
成り立っているということを心得たいものだ。

さすがに着ている着物の袖が振り合うということはないにしても、
現代風に置き換えてみると例えば、

たまたま乗り合わせた電車の隣の席に座った者との縁・・・。
野球観戦での応援で隣のシートに居合わせて者との縁・・・・。

通りすがりに袖が振れ合うというような、偶然でほんのささやかな
出逢いであっても、私たちには計り知れない深い緑で起こるのだ。
本当に人との絆を大切にしたいものだ。

しかし昨今の現代人のありようを見てみると、他人との絆や縁を
大切にしている者と、比較的粗雑に無造作に過ごしている者とがいる。
そして人との関係が丁寧な者は、必ず人は吸い込まれるがごとく
人が集まり、幅広い交友関係が生まれるのみならず、
強力な人物ネットワークを持つことになることが多い。

お寺関係、私個人の繋がり、息子の親子関係での繋がり、そのほか諸々。
深い因縁があった訳ですから、念入りなおつきあいが大切であり、
粗雑な応対をしたり相手を疎外するなどあってはならない。

さて明日から大切な方々との出逢いのため、ちょっと遠方まで遠征に!

今生の最初で最後のご縁として、まさに「一期一会」の精神のごとく
繋げていく覚悟で!

南無阿弥陀仏


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