2017年09月11日

無常の風きたりぬれば・・・

御文章-白骨.jpg

先週、残念な知らせが届いた。

高校・大学、ともに後輩である住職が47歳を一期として
往生の素懐を遂げられた。
中学生の娘さん、小学生の息子さんを残して・・・。

彼は宗派が推進している実践運動(教化活動)において
大阪教区では中心的な立場であり、自然災害の被災地への
ボランティア活動や保護司の活動。
そして寺族青年の野球チームの監督など・・・。

とにかく公私いとわず、積極的に行動するタイプで人望も厚い。

ちょうど今年の5月の末、仲間数人と食事する機会があったのだが、
彼も顔を出してくれていたものの、大柄な体が小さく見えた。
心なしか元気がなさそうにも思えたが、いつも通りの会話を・・・。
今から思えば、その頃から本人は辛かったかもしれない。

そして8月のお盆過ぎから、SNSの反応が途絶えた。

私もご門徒のご法縁のたびに「世は無常なり」とお伝えしてきた。

  されば朝(あした)には紅顔ありて、
  夕べには白骨となれる身なり。
  すでに無常の風きたりぬれば、
  すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ
  ひとつの息ながくたえぬれば、
  紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを
  失ひぬるときは、
  六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて
  ながきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。

  
これは、本願寺第8代蓮如(れんにょ)上人が、今から約500余年前に
当時衰退していた本願寺を復興するために、親鸞聖人の教えをわかりやすく
手紙形式で綴った「御文章(ごぶんしょう)」で布教活動を行った。
その中に収められた『白骨の章』の一節である。

  朝には血色の良い顔をしていても、夕刻には白骨となる身であります。
  ひとたび無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、
  ひとつの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく
  変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、
  すべての親族・親戚が集まって嘆き悲しんでもどうする事もできません。

日頃から「無常」とは、身の回りにあるあらゆるものは常ならざること、
移り変わって少しもとどまらないこと、生滅変化することであると
心得ているつもりではある。
しかし、いざ身近な方、大切な方、家族のいのちが突然途絶えるような
ことが起きうるのもこの娑婆の世界でもある。

ご家族はもとよりご縁のあった方、そして何よりも本人自身、
残念無念であろう。
私自身も何とも言えぬ空虚感で一杯である。
彼からあらためて娑婆の世界の厳しさを教えられたような気がする。

茲に謹んでお念仏申し上げます。
南無阿弥陀仏
posted by 正 at 17:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとりごと
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