
大阪のメインストリートである「御堂筋」。
北の玄関口梅田と南の玄関口難波を船場・島之内経由で結ぶ、
全長4,027メートル、幅43.6メートル(24間)の
全6車線の幹線道路、大阪の大動脈である。
1970年の大阪万博の開催を機に国道1号・国道2号と交差する
梅田新道交差点より南の全車線が南行きの一方通行となった。
かつての御堂筋は、道幅6メートル、北の淡路町から南の長堀まで
約1.3キロメートルの狭く短い道だったそうだ。
1923年、関市長の「都市大改造計画」の事業で御堂筋の
拡幅工事が進められた。
当時の常識から言えばありえないほどの大事業。
市民からは
「市長は船場の真ん中に飛行場でもつくる気か・・・」
という声が上がったのも有名な話。
しかも100年先を見据えていたという関市長の構想は、道路の下に
地下鉄を走らせる計画にも及んでいた。
今から思えば、スケールの大きい大層な英断。
しかしそれがなければ、今の大阪の街はと考えると・・・。
北御堂(津村別院)
南御堂(難波別院)<取り壊し前>名前は、お西の北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)とお東の南御堂
(真宗大谷派難波別院)の寺院をつなぐ参道からの由来。
その由来となった南御堂内にある「御堂会館」が老朽化に伴い昨年閉館。
南御堂(難波別院)<現在取り壊し工事中>現在は着々と取り壊し工事が始まっている。
新たにホテルを主用途とした複合施設に建て替えられるそうだ。
日本初の寺院山門と一体となったホテルに加え、浄土真宗の教えを
発信していくための難波別院の総合案内所や多目的会議室等を含む、
高層の複合施設と変貌していくのだという。
私の知る限りの四半世紀余りの間でも大阪の街、とりわけ御堂筋界隈の
景色も変わった。
大阪の経済的な状況のもと御堂筋沿いのビルも一時期、空きが多かったとか。
かつては近江商人をはじめ、船場で商いすることが一種のステイタスで
あったとも聞く。
そこには、何かしらの仏さまのおこころを感じる商人の風景があった。
まさに南北両御堂の仏さまからいただいた「おかげさま」
時代とともに景色は変われども、いつまでもいつまでも仏さまを感じる
大阪の街であって欲しいと願わずにはおれない。
さて明日、拙寺では春季彼岸会法要。
お念仏の声を絶やさぬように・・・。
南無阿弥陀仏